オスマン・サンコン、母介護でホームヘルパー2級取得

6月12日13時24分配信 産経新聞

 タレントのオスマン・サンコンさん(60)は、平成13年にホームヘルパー2級を取得し、ボランティアに励んでいる。介護を学んだのは、遠いアフリカにいた母の「遠距離介護」のため。電話や帰省で親を支える遠距離介護には、側にいられない罪悪感や容体把握の難しさなど悩みが多いもの。毎日、電話で母の血圧を確かめた。そんな日々を母との思い出とともに語った。(文 寺田理恵)

 僕は年寄りを起こさないで、パジャマをチェンジできますよ。本人の力を利用してね。介護は、力じゃないからね。呼吸なんですよ。相手は人だから、尊敬してね。

 介護を勉強したのは、母のためです。僕は兄弟22人の12番目。お母さんが3人いて、第1夫人の長男です。36年前、大使館をオープンするために日本に来て、その後ワシントンに転勤になって、10年も国に帰らなかった。親不孝をしたのに、お母さんは「国の仕事に必要とされているから行きなさい」と言ってくれた。

 帰国して外務省に勤めた後、また日本ギニア友好協会の広報官として日本へ来ました。お母さんのことはギニアにいる姉たちに任せきりだから、毎年プレゼントを買って帰ります。ギニアにいるのは1~2週間。お母さんは小さいのに、僕をひざの上に抱っこしてくれました。

 お母さんは息子の足を治せなかったことを、ずっと抱えていました。僕は3級の障害者手帳を持っています。高校2年のとき、サッカーで骨折したのがもとで、右足が不自由です。お母さんは毎晩、僕の足が治るようにと、もんでくれた。その手のぬくもりは今も感じます。

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 母に何か恩返しができるんじゃないかと、血圧測定器と体温計、ノートをギニアに送って、毎日電話して、「今日いくつだった」と数値を聞きました。高血圧だったんです。

 毎年、母に会いに行くために、日本で1年頑張っていました。母は帰るたび、だんだん年をとっていく。友達が特別養護老人ホームの苑長(施設長)でね、彼に「お母さんと同じ年齢、症状の人がいるから勉強したら」と勧められ、ヘルパー2級の資格を取りました。1年かかったけど実習を全部やった。入浴介助もしました。

 ギニアへは電話して、介護するの。毎日、食事のメニューや血圧を聞いて。ギニアにはお風呂がなくてシャワーを使うけれど、日本のおじいさん、おばあさんが笑顔になるのは、お風呂に入っているとき。だから、ギニアの家にお風呂を造って、「血行をよくするために入りなさい」と勧めました。

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 母が亡くなったのは2005年12月です。階段で転んでから歩かなくなりました。ご飯を食べなくなって体重がどんどん減って、寝たきりになりました。ある日、50年使った指輪を抜いて、形見にくれました。それが僕との最後のやりとり。2カ月後に会ったときは、もう僕の顔も分からなかった。アフリカの平均寿命よりずっと長く生きて、86歳で亡くなりました。介護を勉強してよかったなと思いましたよ。後悔はしていない。

 日本全国の老人ホームで、そういう話をします。講演会のついでに、ボランティアでね。一人一人、自分の母だと思いながら握手します。母もこういう手だった、同じ手だと思いながら。母に出会ったと思うことで僕も慰められています。

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【プロフィル】オスマン・サンコン

 おすまん・さんこん 昭和24年3月、西アフリカ・ギニア生まれ。47年外交官として来日し、8年間滞在。59年に外務省を休職して再来日し、バラエティー番組「笑っていいとも!」(フジテレビ系)出演をきっかけに人気者に。現在は講演活動のほか、ギニア日本交流協会顧問としてボランティアに励む。ホームヘルパー2級の資格を持つ。

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