「いざ!鎌倉」 薩長同盟と深い関係?

11月9日21時25分配信 産経新聞

 正直に言おう。神奈川県内に30年近く住んでいながら、永田町・霞が関での取材に追われ、郷土史にまったくといっていいほど疎かったことを最近になって自覚した。自らの不明を恥じつつ、今月初めの連休を利用して古都・鎌倉を散策してみたのだが…。

 「いざ、鎌倉!」とばかり、痩せ馬ではなく二日酔いの体にムチ打とうと思ったのは、横浜市内のとある居酒屋で知り合った年配サラリーマン男性の話が頭から離れなかったからだ。

 このときの会話は、神奈川県の三浦半島に位置する横須賀を選挙区とする小泉純一郎元首相が次期衆院選に出馬せずに政界を引退すること、小泉氏がまだ首相だったころ、酔いがまわると与党幹部らに織田信長や赤穂浪士の散りぎわの話を好んでしていたことに始まり、話題はいつしか戦国武将の生い立ちやら生き様に移っていった。

 その小泉氏は平成17年の郵政解散直前、信長を意識したのだろうか、与党幹部に対して「殺されても構わない。オレはやる」と宣言し、郵政民営化法案が参院で否決されたら、衆院解散という奇策に打って出る決意を語っている。当時、首相公邸で小泉氏と一献傾けた自民党幹部から聞いた話では、赤穂浪士について小泉氏は「浪士は腹を切ったから日本人の記憶に残った。散ってこそ花だ」と引き際の美学を語っている。

 評価の善し悪しは別にして、郵政民営化反対候補の選挙区に刺客を送り込むなど、小泉氏が戦(いくさ)上手であり、絶えず自分の引き際を考えていたのは確かなようだ。さきのサラリーマン男性にそんな話をしていたら、戦国時代のいくさ上手で、誇張ではあろうが「百戦百勝」といわれた上杉謙信に話題が飛んだ。

 これがまったくの偶然なのだが、小泉氏の宿敵、国民新党の亀井静香代表代行を生き移しにしたのかと思われるほど顔立ちが激似の彼いわく、「えっ~知らなかったの?上杉謙信は大船辺りの出だよ~」。

 帰宅後、さっそくパソコンでググッてみた。いや~出るわ、出るわ。関連文献やら真偽不明の書き込みが盛りだくさんだ。かくいう私は郷土史の専門家でもないし、そもそも知らないことが多すぎる。学術論文ではないので間違いがあったらお許しを願いたいが、ネットに出ていた内容はざっとこんな具合だった。

 謙信の祖先は、現在の鎌倉市大船の近く、横浜市栄区の丘陵地帯にある長尾台を領地としていた。桓武平氏の流れをくむ板東八平氏の一つである長尾一族である。名族鎌倉氏につらなる家柄だ。当時の地名でいえば相模国鎌倉郡長尾庄(ながおのしょう)であり、現在の栄区長尾台町周辺(フリー百科事典『ウィキペディア)だそうだ。

 謙信はのちに関東管領上杉憲政から上杉氏の家督を譲られ、上杉政虎と名を変えて関東管領となった。その際、鎌倉・鶴岡八幡宮で就任式を行ったことはよく知られている。だが、「越後の虎」、「毘沙門天の化身」のルーツが、現在の横浜市にあり、自分にとって身近な存在であることをとんと知らなかった。

 ちなみに、源頼朝ゆかりの鶴岡八幡宮で謙信がわざわざ就任式を挙行した理由としては、鎌倉武士にもゆかりの場所で存在をアピールし、自らの求心力アップを図る必要がある-と判断したのかどうかは、分からない。為政者がパフォーマンスをいかに重視するかという点は、古今東西、麻生太郎首相もなんら変わらないのではないか。

 鶴岡八幡宮の本宮に続く大石段のてっぺんから階下を見下ろして思い出したのは、高校時代の世界史の教科書に掲載されていた(と思われる)絵画だった。19世紀後半、パリ郊外のヴェルサイユ宮殿でプロイセン王ウィルヘルム1世がドイツ皇帝戴冠式を行ったあのシーンだ。

 板東八平氏の流れをくむ謙信が、就任式を行うにあたって、敵地に乗り込んだウィルヘルム1世と似たような心境にあったのではないかと思ったからだ。平家の末裔である自分が、「関東一円を源氏の手から取り戻したゾ!」という気負いが謙信になかったのかとつい、連想してしまうのだった。

 JR横須賀線の北鎌倉駅を降り、臨済宗大本山の円覚寺、鎌倉五山第1位の建長寺を左手に見ながら、鶴岡八幡宮まで2キロほど。この後、鎌倉散策のメインイベント、大江広元(おおえのひろもと)の墓を訪ねることにした。

 そこでまた、自分だけが知らなかったのか、不思議な「縁(えにし)」に出会い、悠久の歴史に思いをはせることになる。

 徳川幕府を倒した薩長同盟は、鎌倉幕府と深い関係にあったのだ!

 大江氏は京都出身で鎌倉幕府の政所の初代別当(長官)。実務能力を頼朝から高く買われ、鎌倉武士を押しのけ起用された。平成15年のNHK大河ドラマ「義経」では、俳優の松尾貴史さんが好演していた。

 その大江氏は長州藩の毛利家につながる。毛利の名は、広元の所領だった相模国愛甲郡毛利庄(もりのしょう)に由来する。現在の厚木市毛利台だ。自分が通っていた高校のあるところだが、これも不明を恥じるところで、当時はまったく気づかなかった。

 その大江氏の墓だが、実をいうと怖くてお参りできなかった。山の中腹にあるのだが、そこにつながる階段の両脇に行く手をはばむように木々がこんもりと繁り、広元から「静かに眠らせてくれ~」と懇願する声が聞こえたように思ったのだ。そこには何か、人知では制御不能な強い「意思」が存在するようだった。

 というわけで、大江氏の墓参りは次の機会に回すことにしたのだが、ここには広元の4男、毛利季光と島津家の始祖、島津忠久(ただひさ)の墓もある。忠久は頼朝に重用され、1197年、大隅国、薩摩国の守護を任じられた。頼朝の信頼の厚い御家人だった。

 島津家が「鎌倉以来の家柄」として知られているのは、こんないきさつがあったからだが、まさか、長州藩毛利氏につながる大江氏親子とともに眠っているとは、正直驚いた。島津氏も毛利氏も、のちに徳川を名乗る松平家に対し、関ヶ原の戦いで敗れても「われわれは頼朝公以来の由緒正しき家柄。何するものぞ」という自負心があり、その家柄に対する気概が倒幕の原動力の一つになったのではないかという気がした。

 階段の先の墓で眠る広元ら3人を想いながら、薩長同盟は鎌倉時代にその萌芽があったのだ-という確信に近い思いにかられた。元治元年(1864年)には京都の蛤御門の変で砲火を交えたこともある両藩だったが、幕末の同盟は結ばれるべくして結ばれたのではないだろうか。

 ちなみに、そのすぐそばの山の中腹には頼朝の墓がある。そこから下を見渡した平地が、鎌倉幕府があった場所だ。頼朝の墓も広元らの墓と同様、こんもりとした木々に囲まれ昼なお暗い。鎌倉市観光協会の公式ホームページによると、高さ2メートルの層塔は「安永8年(1779)頼朝の子孫という薩摩藩主島津重豪によって再建された」そうだ。

 そういえば、小泉氏の実父、純也元防衛庁長官は鹿児島出身だ。頼朝の墓を後にした後、薩摩の血が流れている小泉氏の口癖が頭の中を去来した。

 「昨日の敵は今日の友。政界では離合集散は当たり前!」

 今も昔も権力闘争の本質は変わらないようだ。(佐々木類)

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