重要文化財角屋 /京都

島原(下京区)の「角屋(すみや)」を楽しんできました。と、言っても太夫をお座敷に呼んだわけではありません。重要文化財の角屋に併設されている「角屋もてなしの文化美術館」の企画展「重文角屋の附(つけたり)指定品と非公開資料展」(12月15日まで開催。月曜日休館)のマスコミ向け説明会でのことです。

 島原に花街が生まれたのは寛永18(1641)年。角屋は太夫や芸妓(げいこ)を抱えない揚屋(あげや)であり、太夫らを置屋(おきや)から呼んで宴会を催す場、今でいう料亭でした。近世の揚屋建築(民家に書院造りや数寄屋造りを取り入れた建造物)として唯一残り、1952年に重文指定。建物に付随するふすまや古文書などは重文の附として追加指定され、建物は85年まで宴会場として使われていました。

 同美術館を運営する角屋保存会理事長で角屋中川家15世の中川清生(きよお)さん(61)から説明を聞きました。初公開の一つに延宝期(1673~81年)の「板絵図」(重文)があります。松の板の表裏に角屋1階の平面図と断面図が描かれています。角屋は延宝期と天明期(1781~89年)に大きく拡張、増築しており、平面図は天明期前の建物とほぼ一致しているそうです。ただし、絵と言われなければ分からないほどに黒ずんでいます。

 おもしろいなあと思ったのは、この板絵図は台所の階段下の物置から見つかったということです。一時は棚板として使われていたようです。見つかったのは戦後です。誰も値打ちのある絵だとは気付いていなかったのでしょう。中川さんも「どうしてこんなところにあったのか不思議で。物を大切にする気持ちがあったからこそ残ったのでしょうね」と話されました。

 江戸中期の画家、山田峨山(がざん)の「馬図」も初公開です。馬はもともと衝立(ついたて)に描かれた絵でした。当時の角屋を描いた俯瞰(ふかん)図の中にある衝立に小さく馬が描かれていることからも確認できます。ところが、江戸後期の画家が描いた布袋(ほてい)さんと取り替えられ、外された馬図は捨てられはしなかったが、表装されることもなく残されたそうです。

 「もっとあるんでしょうね」と向けると、「倉庫の中を全部見たわけではないので」ということでした。真っ黒になった棚板までチェックすれば……。昔から「京都人はケチ」とよその人から言われてきましたが、「もったいない」精神が文化財を守り、残してきたと言えますから、ケチも文化、褒め言葉です。【京都支局長・北出昭】

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