あるかぽーと開発:下関市が大和リース案、環境共生型を選定 /山口

11月11日17時1分配信 毎日新聞

 ◇ホテルやシネコン
 関門海峡沿いの埋め立て地を複合商業施設などとして開発する「あるかぽーと」計画で、下関市は10日、最終候補3案のうち、大和リース(大阪市)福岡支店が提案した環境共生タイプ「海峡パノラマステージ」案を選定すると発表した。19階建てのシティホテルやシネマ・コンプレックス(シネコン)などを計画している。
 事業案の選定は、学識経験者などによる選定審査委員会(委員長=坂本紘二・下関市立大学長)が行った。それぞれの案を、宿泊施設▽複合商業施設▽景観との調和――など9項目で採点した結果、大和リース案がトップ、明豊エンタープライズ(東京都)案が次点になった。
 大和リース案は市街側からの眺望に配慮し、高さ67・6メートルの19階建てホテルを計画地の東端に配置。商業棟は地上2階、地下1階の低層構造で、屋上の大半を芝生広場として整備する。円形広場や海べりの大階段「シーサイドステップ」なども設け、自由に散策できる公開空間をふんだんに確保した点が選定委の評価を受けた。
 商業棟にはシネコンや書店、アミューズメント施設などが入居するという。
 市は今後、大和リースとの開発協定締結へ向け交渉に入る。【取違剛】
〔下関版〕

「いざ!鎌倉」 薩長同盟と深い関係?

11月9日21時25分配信 産経新聞

 正直に言おう。神奈川県内に30年近く住んでいながら、永田町・霞が関での取材に追われ、郷土史にまったくといっていいほど疎かったことを最近になって自覚した。自らの不明を恥じつつ、今月初めの連休を利用して古都・鎌倉を散策してみたのだが…。

 「いざ、鎌倉!」とばかり、痩せ馬ではなく二日酔いの体にムチ打とうと思ったのは、横浜市内のとある居酒屋で知り合った年配サラリーマン男性の話が頭から離れなかったからだ。

 このときの会話は、神奈川県の三浦半島に位置する横須賀を選挙区とする小泉純一郎元首相が次期衆院選に出馬せずに政界を引退すること、小泉氏がまだ首相だったころ、酔いがまわると与党幹部らに織田信長や赤穂浪士の散りぎわの話を好んでしていたことに始まり、話題はいつしか戦国武将の生い立ちやら生き様に移っていった。

 その小泉氏は平成17年の郵政解散直前、信長を意識したのだろうか、与党幹部に対して「殺されても構わない。オレはやる」と宣言し、郵政民営化法案が参院で否決されたら、衆院解散という奇策に打って出る決意を語っている。当時、首相公邸で小泉氏と一献傾けた自民党幹部から聞いた話では、赤穂浪士について小泉氏は「浪士は腹を切ったから日本人の記憶に残った。散ってこそ花だ」と引き際の美学を語っている。

 評価の善し悪しは別にして、郵政民営化反対候補の選挙区に刺客を送り込むなど、小泉氏が戦(いくさ)上手であり、絶えず自分の引き際を考えていたのは確かなようだ。さきのサラリーマン男性にそんな話をしていたら、戦国時代のいくさ上手で、誇張ではあろうが「百戦百勝」といわれた上杉謙信に話題が飛んだ。

 これがまったくの偶然なのだが、小泉氏の宿敵、国民新党の亀井静香代表代行を生き移しにしたのかと思われるほど顔立ちが激似の彼いわく、「えっ~知らなかったの?上杉謙信は大船辺りの出だよ~」。

 帰宅後、さっそくパソコンでググッてみた。いや~出るわ、出るわ。関連文献やら真偽不明の書き込みが盛りだくさんだ。かくいう私は郷土史の専門家でもないし、そもそも知らないことが多すぎる。学術論文ではないので間違いがあったらお許しを願いたいが、ネットに出ていた内容はざっとこんな具合だった。

 謙信の祖先は、現在の鎌倉市大船の近く、横浜市栄区の丘陵地帯にある長尾台を領地としていた。桓武平氏の流れをくむ板東八平氏の一つである長尾一族である。名族鎌倉氏につらなる家柄だ。当時の地名でいえば相模国鎌倉郡長尾庄(ながおのしょう)であり、現在の栄区長尾台町周辺(フリー百科事典『ウィキペディア)だそうだ。

 謙信はのちに関東管領上杉憲政から上杉氏の家督を譲られ、上杉政虎と名を変えて関東管領となった。その際、鎌倉・鶴岡八幡宮で就任式を行ったことはよく知られている。だが、「越後の虎」、「毘沙門天の化身」のルーツが、現在の横浜市にあり、自分にとって身近な存在であることをとんと知らなかった。

 ちなみに、源頼朝ゆかりの鶴岡八幡宮で謙信がわざわざ就任式を挙行した理由としては、鎌倉武士にもゆかりの場所で存在をアピールし、自らの求心力アップを図る必要がある-と判断したのかどうかは、分からない。為政者がパフォーマンスをいかに重視するかという点は、古今東西、麻生太郎首相もなんら変わらないのではないか。

 鶴岡八幡宮の本宮に続く大石段のてっぺんから階下を見下ろして思い出したのは、高校時代の世界史の教科書に掲載されていた(と思われる)絵画だった。19世紀後半、パリ郊外のヴェルサイユ宮殿でプロイセン王ウィルヘルム1世がドイツ皇帝戴冠式を行ったあのシーンだ。

 板東八平氏の流れをくむ謙信が、就任式を行うにあたって、敵地に乗り込んだウィルヘルム1世と似たような心境にあったのではないかと思ったからだ。平家の末裔である自分が、「関東一円を源氏の手から取り戻したゾ!」という気負いが謙信になかったのかとつい、連想してしまうのだった。

 JR横須賀線の北鎌倉駅を降り、臨済宗大本山の円覚寺、鎌倉五山第1位の建長寺を左手に見ながら、鶴岡八幡宮まで2キロほど。この後、鎌倉散策のメインイベント、大江広元(おおえのひろもと)の墓を訪ねることにした。

 そこでまた、自分だけが知らなかったのか、不思議な「縁(えにし)」に出会い、悠久の歴史に思いをはせることになる。

 徳川幕府を倒した薩長同盟は、鎌倉幕府と深い関係にあったのだ!

 大江氏は京都出身で鎌倉幕府の政所の初代別当(長官)。実務能力を頼朝から高く買われ、鎌倉武士を押しのけ起用された。平成15年のNHK大河ドラマ「義経」では、俳優の松尾貴史さんが好演していた。

 その大江氏は長州藩の毛利家につながる。毛利の名は、広元の所領だった相模国愛甲郡毛利庄(もりのしょう)に由来する。現在の厚木市毛利台だ。自分が通っていた高校のあるところだが、これも不明を恥じるところで、当時はまったく気づかなかった。

 その大江氏の墓だが、実をいうと怖くてお参りできなかった。山の中腹にあるのだが、そこにつながる階段の両脇に行く手をはばむように木々がこんもりと繁り、広元から「静かに眠らせてくれ~」と懇願する声が聞こえたように思ったのだ。そこには何か、人知では制御不能な強い「意思」が存在するようだった。

 というわけで、大江氏の墓参りは次の機会に回すことにしたのだが、ここには広元の4男、毛利季光と島津家の始祖、島津忠久(ただひさ)の墓もある。忠久は頼朝に重用され、1197年、大隅国、薩摩国の守護を任じられた。頼朝の信頼の厚い御家人だった。

 島津家が「鎌倉以来の家柄」として知られているのは、こんないきさつがあったからだが、まさか、長州藩毛利氏につながる大江氏親子とともに眠っているとは、正直驚いた。島津氏も毛利氏も、のちに徳川を名乗る松平家に対し、関ヶ原の戦いで敗れても「われわれは頼朝公以来の由緒正しき家柄。何するものぞ」という自負心があり、その家柄に対する気概が倒幕の原動力の一つになったのではないかという気がした。

 階段の先の墓で眠る広元ら3人を想いながら、薩長同盟は鎌倉時代にその萌芽があったのだ-という確信に近い思いにかられた。元治元年(1864年)には京都の蛤御門の変で砲火を交えたこともある両藩だったが、幕末の同盟は結ばれるべくして結ばれたのではないだろうか。

 ちなみに、そのすぐそばの山の中腹には頼朝の墓がある。そこから下を見渡した平地が、鎌倉幕府があった場所だ。頼朝の墓も広元らの墓と同様、こんもりとした木々に囲まれ昼なお暗い。鎌倉市観光協会の公式ホームページによると、高さ2メートルの層塔は「安永8年(1779)頼朝の子孫という薩摩藩主島津重豪によって再建された」そうだ。

 そういえば、小泉氏の実父、純也元防衛庁長官は鹿児島出身だ。頼朝の墓を後にした後、薩摩の血が流れている小泉氏の口癖が頭の中を去来した。

 「昨日の敵は今日の友。政界では離合集散は当たり前!」

 今も昔も権力闘争の本質は変わらないようだ。(佐々木類)

壬生川駅の整備事業を計画 愛媛・西条市

11月8日8時2分配信 産経新聞

 愛媛県西条市は、JR壬生川駅周辺の整備事業を計画している。同駅を中心とした約82ヘクタールが対象で、新たな拠点整備に伴い駅西地区と東地区を結ぶ回遊性の創出による賑わいの再生を図る。事業化に向けて国や県と協議中で、軌道に乗れば21年度の実施計画策定を含めて5カ年事業として整備事業に着手したい方針。

 県道の壬生川丹原線沿いには近年、大手スーパーや家電店、飲食店など集客力の高い施設が進出。だが駅西地区は東予総合支所や中央公民館といった公共施設の集積はあるが、開発が出遅れている。壬生川駅東口は大型スーパーの撤退や地元商店の空き店舗が目立ち、中心市街地でありながら賑わいが失われつつある。

 また、同駅前は昭和50年にロータリーが完成して以来、歩道や車道などが老朽化し、駅前広場でも交通結節点として再整備が必要となっていた。こうした状況を踏まえ、合併時の新市建設計画に盛り込まれていた「JR壬生川駅周辺の整備」方針を固めた。

 構想によると、カブトガニのデザインを取り入れた特色あるまちづくり▽人に優しいまちづくり-をコンセプトに、駅前広場やまちづくりの骨格となる道路網を整備。駅の東西を歩行者や自転車が乗降できるエレベーターや階段を配した自由通路を計画している。広場は駅東口が4200平方メートル、駅西口は旧国鉄精算事業団用地も活用した5700平方メートルを予定。

 同市は、ハード事業とともに商店街活性化などのソフト事業も検討している。

ホンダ歩行アシスト…体重支持型の試作機を公開

11月8日3時10分配信 レスポンス

ホンダは、体重の一部を機器が支えることで、歩行や階段昇降、中腰などの際、脚にかかる負担を軽減する「体重支持型歩行アシスト」の試作機を公開した。今後、実際の使用環境での有効性を検証して実用化を検討する。

体重支持型歩行アシストは、使用者の体重の一部を機器が支えることで、脚の筋肉と関節(股関節、ひざ関節、足首関節)の負担を軽減する仕組み。機器はシートとフレーム、靴で構成されるシンプルな構造で、靴を履き、シートを持ち上げるだけで、手軽に装着することが可能だ。また、ホンダ独自の、人の重心方向へアシスト力を向かわせる機構と、脚の動きに合わせたアシスト力の制御により、様々な動作・姿勢での自然なアシストを可能としている。
 
ホンダでは、より多くの人に移動する喜びを提案するため、1999年から「歩行アシスト」の研究を開始。『ASIMO』に代表される人の歩行研究から得た知見を基に、機器の研究を進めてきた。11月から体重支持型歩行アシストの試作機を用いて埼玉製作所で、機器の有効性を検証していく。
 
体重支持型歩行アシストなど一連の歩行アシストの研究は、本田技術研究所基礎技術研究センター(埼玉県和光市)で行っている。

《レスポンス 編集部》

絵本 日常に潜む身近な危険知らせる…有志が制作

11月8日11時36分配信 毎日新聞

 階段やドアなど、日常に潜む身近な危険を子どもに知ってもらおうと、研究者や民間企業の有志らが絵本を製作した。交通安全をテーマにした本はあるが、日常生活での注意を子どもに分かりやすく伝える絵本はこれまでなく、保護者らから歓迎の声が上がりそうだ。本は全国の幼稚園約1万3000カ所に無料配布するとともに、ホームページ(http://www.kikengaku.com/)でも公開を始めた。

 絵本「あぶない!きけん!」(A4判、65ページ)は4歳前後を対象に作られた。舞台は幼稚園。男の子がドアのすき間に手を入れて遊んでいると、女の子がドアを閉めてしまう。ここで、絵本を読む子どもが「ドアは挟まれるから危ない。ドアで遊ばないように」と、本の登場人物に呼び掛ける、という構成だ。このほか滑り台やベランダなどでの注意点が登場する。

 併せて保護者向けの冊子「子どものための危険学」(69ページ)も作り、浴槽でのおぼれなど家庭内での事故の予防策や応急処置を掲載した。

 絵本は、六本木ヒルズの回転ドア死亡事故(04年)をきっかけに、身近な事故防止を目指して07年に発足した「危険学プロジェクト」(代表・畑村洋太郎工学院大教授)が企画し、幼稚園の先生や小児科医も協力した。イラストを担当した近石(ちかいし)直子さん(35)は「子ども自身が危険に気づくことで、減らせるけがは多い」と話す。【下桐実雅子】

長野駅善光寺口の未来像は?検討委員会で論議

北陸新幹線が金沢まで伸びるのを6年後に控え、JR長野駅善光寺口のあり方を話し合う委員会が開かれました。

1996年に策定された都市計画では、長野駅の自由通路から三方向に歩行者用の空中通路=ペデストリアンデッキを建設することになっていました。

しかし実際にはペデストリアンデッキは建設されず、駅を降りた人は横断歩道を渡ってそれぞれの目的地に向かいます。

このほかにも駅前広場と駅を結ぶ自由通路に下りのエスカレーターがないことや、長野電鉄の地下駅に向かうには階段しかないなど善光寺口には様々な意見があります。

長野市では学識経験者や市民、公共交通機関の関係者などで作る検討委員会を立ち上げ、善光寺口のあり方について協議を始めています。

委員からは既に公園の整備や、送迎車やバスの停車スペース拡大を求める声も挙がっています。

新幹線が金沢まで延びると長野も通過駅となり、観光客誘致への努力がこれまで以上に求められます。

金沢まで開通するのは6年後。

県都長野の玄関口の顔として魅力ある環境整備が求められています。

[4日20時15分更新]

SBC

階段滑り止め 旧交通博物館は今…変わらず残る万世橋駅の遺構

11月3日14時1分配信 産経新聞

 交通博物館(東京都千代田区神田須田町)が万世橋駅に併設されて以来、70年の歴史に幕を閉じ約2年半が経過した。前庭にあった0系新幹線、D51蒸気機関車は撤去されたものの、神田川沿いの美しい赤レンガアーチは健在だ。鉄道に関する収蔵物の大半が1年前に開館した鉄道博物館(さいたま市大宮区)に移されたが、明治・大正期の駅構造物が残る館内や、貴重な自動車や飛行機はどうなったのだろうか。旧交通博物館を訪ねてみた。

 ■自動車、ヘリ…着々と決まる“引っ越し先”

 パノラマ模型運転場の横に蒸気機関車2両が並び、戦後だけで約3000万人の入場者を迎えてきた1階ホール。3階までの吹き抜け構造で、床面には砕石が残り、天井からほこりをかぶったヘリコプターが寂しく下がっていた。

 ホールに面した2、3階の手すりは展示物搬出のため一部が壊され、閉館前の「さよなら企画」で掲示された博物館の古い写真がそのまま残る。手狭になったことが閉館理由の1つだったが、がらんとした今ではとても広く感じられる。

 JR東日本の委託で管理する交通文化振興財団の荒木文宏事務局長は「実物を置かなければ博物館ではありません。展示物の寄贈を受けてもスペースが限られていたので頭を悩ませました」と振り返る。

 2、3階に自動車や航空機に関する展示物の一部が当時のまま残っているが、貸し出しという形で“引っ越し先”探しが進められている。愛好家から「鉄道以外は捨ててしまうのか」と不安の声も上がったというが、博物館やメーカーから展示を希望する問い合わせが殺到。大学教授らでつくる有識者会議がふさわしい場所を検討しているので、ご安心を。

 1階奥にある中央線高架下の展示コーナーに場所を移すと、時折列車の通過音が聞こえてくる。線路や架線を支える現役の鉄道施設だけに、点検がしやすいよう展示コーナーのあちこちに小さな扉が設けられ、扉を開けると赤レンガが現れる。

 直線で最長120メートルに及ぶ高架下のアーチ型空間は展示だけではなく、倉庫、配電盤の設置、鉄道模型工場、営繕など裏方用に使われていた。細い通路の左右に並ぶ教室のような部屋の1つでは、実際に子供を対象とした工作教室も行われたという。

 また、扉を閉めると完全な暗闇となる一番広い場所は、堅牢(けんろう)な構造を生かして写真の現像に使った時期もあったそうだ。日が当たらず、ひんやりとした空間にどこか懐かしい酢酸のにおいが漂っていた。

 ■駅の面影を伝える2つの階段

 中央線の神田~御茶ノ水間に位置した万世橋駅は2回の再建を経た。

 後に東京駅を手掛ける辰野金吾(1854~1919)が設計し、中央線の始発として明治45年に建てられた豪華な初代。大正12年の関東大震災で焼失した後に再建された簡素な2代目。昭和11年に博物館を併設し、近代的な建物に生まれ変わった今も残る3代目。

 建物の基礎を共通しているため平面図を比較すると形は大きく変わらないが、趣はまったく異なる。駅は戦時中の18年11月に営業を休止した。

 駅の面影を最も残すのが高架上のプラットホームにつながる明治と昭和初期に造られた2つの階段だ。

 階段の踊り場を利用して造られた休憩所は、左折する形で壁の向こう側に階段が延長している。初代駅舎の中央階段をそのまま流用し、博物館併設後はプラットホームに直結する来賓用の特別出入り口として使っていたという。

 ホーム跡につながる天井をふさぐため木材が垂直に入っているものの、壁のレンガや御影石の階段は当時のままだ。一方、現在の事務室裏にある階段は博物館併設時の3代目駅舎とともに新たに造られたもの。コンクリート製であることや、レンガの目地の処理など初代と比べて見劣りするが、「しばいせんま」と書かれた駅名標が復元され、当時の雰囲気を醸し出している。

 階段の段ごとに付けられた滑り止めは戦時中の金属供出のため外された状態。東屋のような木製の“屋根”は雰囲気を壊すが水漏れ対策だから仕方がない。旧中央階段と同様に天井はふさがれていたものの、突き当たりに小さな扉があり特別に開けてもらう。

 旧ホームからながめた周辺のビル群が現れるか、と思いきや、伸び放題の雑草が枠いっぱいに広がった。「花壇をつくり花畑だった時期もありましたが、今は花は植えていません」と少し申し訳なさそうな荒木事務局長。

 扉から顔や手を出すのは“ご法度”。運転士が見つけたら直ちに列車を止めてしまう。しかし、奥からのぞくだけでも間近を列車が通過する様子は迫力満点。同時に昔のホームはこんなに狭かったのか、という驚きもあった。

 ■跡利用はどうなる

 専門家によれば、3代目駅舎の一部として昭和11年に建てられた交通博物館も旧万世橋駅に負けず劣らず歴史的価値の高い建物という。上野公園にある西洋美術館をはじめ、手掛けた建築物群がまとめて世界遺産に登録されることが見込まれるル・コルビジェ(1887~1965)の薫陶を受けた日本人が設計した「日本近代建築の元祖」と呼べるものらしい。

 「壊さないで」と要望が寄せられているが、関係者の話では保存にはかなりの困難があるようだ。博物館から用途変更すれば今の耐震基準、消防法を満たさなければならず改築が必要。補強のため筋交いなどが入ることで面影が失われることも予想されるという。

 建物の跡利用はJR東日本で検討中だが、荒木事務局長は「万世橋の歴史や旧駅の遺構を後世に伝えていくような活用法を検討してほしい、と伝えています」。

 今でこそ大通りから東に100メートルほど入った裏手に位置するが、かつて神田川方面と反対側にあった旧駅の中央口(博物館では大物搬入口)の目前には「須田町交差点」があり、路面電車や自動車が行き交っていた。夏目漱石らの作品にも頻繁に登場する繁華街だった。

 万世橋駅が営業休止となり、最寄り駅となった秋葉原はやがて家電やパソコン、メイド喫茶に席巻されていく。その間も博物館は変わらぬ姿で歴史を伝え、御茶の水など文教地区を守る“とりで”のような存在でもあった。

 神田川を挟み万世橋から昌平橋まで約110メートルにわたって伸びる中央線高架下の赤レンガアーチ。ここだけでしか見られない光景だ。ぜひとも鉄道遺産を生かす形での跡利用を希望したい。

銀座「ティファニー本店」リニューアル-隅研吾さん監修、ビル全体でLED演出も

10月31日20時55分配信 銀座経済新聞

 米・宝飾大手のティファニー・アンド・カンパニー(本社=ニューヨーク)は11月1日、銀座中央通りの「ティファニー本店」(中央区銀座2、TEL 03-5250-2900)と同店が出店するティファニー銀座ビルをリニューアルオープンする。

 同ビルのデザインは建築家・隅研吾さんが担当、同店も隅さんがデザインを監修し同社デザインチームの基本計画の下、1階~3階の店舗内の全面改修を行なった。隅さんはビルの新コンセプトを「ティファニーのビジュアル・アイデンティティーと響き合うジュエリーのような建築」と表現する。世界初のデザインや素材などを取り入れたコンテンポラリーな空間に生まれ変わった同店の店舗面積は約1113.7平方メートル。商品の品ぞろえは日本一を誇る。

 目を引く外装デザインを特徴づけるのは、2枚のアルミハニカム(ハチの巣型のパネル)がはめ込まれた292枚のファセットパネル。内外の光を美しく反射し、ダイヤモンドのファセットが多彩な光を生み出せるような効果を与えるほか、1枚1枚に計算された傾きが加えられることにより、昼間は銀座のにぎやかな街並み、夜間は背後にセットされたLED照明が美しい光を演出し、「ドラマティックな夜を映し出す」(同社)。

 エントランスには2層吹き抜けのアトリウムスペースが設け、内照式のクリスタルストーンに覆われたフューチャーウオールが柔らかな光を放ち、ラグジュアリーな雰囲気を作り出した。吹き抜け上部には鏡面の天井が取り付けられ、高さ8メートルを越える空間に一層の迫力を与えている。ファサードはビル全体の外壁と一体のデザインとなり、エントランス中央部に鎮座していた大時計は姿を消した。

 1階は、フロアには中国四川省で産出する貴重な天然石・ニューグレーを敷き、壁面にはアルミ素地にシルクを重ねたハンドメードのウオールペーパーと天然のプラテイン材のコンビネーションで構成した、見る角度によりブラウン系から玉虫色に変化するユニークな材質を用いた。店舗奥には同店初となるメンズコーナーを設け男性客の取り込みを意識するほか、自由に手に取ることができるチャームのオープンディスプレーを新設する。

 ブラウン系にまとめたシックな印象の2階は、壁面にバーティカルなウッドドレイプを用いたほか、1階同様、右奥にプライベートセールス(個室)を設置。ファインジュエリーのほか、アイテム数を増やしスペースを増床したブライダル商品などを取り扱う。リニューアルオープンを記念した「目玉商品」として、ニューヨークの本社が特別製作した11.19カラットのダイヤモンドリング「ハート・オブ・ニューヨーク」(2億8,728万円)が世界初登場する。

 3階には、商品の修理・調整を行なうカスタマーサービスとゲストラウンジを新たに設けた。2階から3階につながる階段の吹き抜けにはアルミハニカムをアクリルで繊細に包んだ特注のシャンデリアを設置し、内外の光を反射し明るい空間を演出する。

 オープニング限定品には、18Kホワイトゴールドとダイヤモンドの「ギンザ ハート ペンダント」とパロマ・ピカソがデザインしたウオッチが登場。同店をはじめ三越銀座店、松坂屋銀座店でそれぞれ販売する。

 営業時間は11時~22時。

【関西てくてく歩き隊】和泉国コース光明池~松尾寺

10月31日16時25分配信 産経新聞

 ■色づく秋 心は古代へ- 古墳、田園、ミカン畑…歴史と自然満喫

 取材担当地区のひとつ、大阪府和泉市で11月15日、ウオーキングイベント「2008和泉国古代史遊ing-光明池から松尾寺へ 歴史と伝説を歩く」が開催される。普段は公共交通機関やタクシーで訪れる地区だが、歩いてみたらどんなだろう。行程約10キロをめぐってみることにした。

 イベントのスタート地点は泉北高速鉄道・光明池駅近くにあるダイエー光明池店前の広場。そこから、ゴールの和泉市いずみの国歴史館までを、色づき始めた山あいなどをコースにマイペースで歩き、泉州の豊かな自然と悠久の歴史を満喫しよう。

 周辺が商業ビルやマンションなどで囲まれ、買い物客が集う広場を出発し住宅街を抜けると、すぐに昭和11年に灌漑(かんがい)用に造られた光明池が眼下に広がった。岸辺は一部が遊歩道に整備され、池の周回距離は約4キロにおよぶ。現在は堤防補強工事中のため水量は少ないが、最大貯水量約370万トン時で水深約24メートルと湖並みだ。池名は近くで誕生したと伝わる奈良時代の光明皇后にちなんでいる。周辺は「大阪緑の百選」に選ばれ、気持ちのいいエリアだ。

 遠くに見える岸のほとりに住宅が並んでいるところがある。水辺の景色を日常から楽しめるなんて少しうらやましい。遊歩道ではカップルや家族連れ、ジョギングする男性らがのどかな風景に溶け込んでいた。森に囲まれた遊歩道を進み、ドングリの実が、いくつも転がり、秋を実感させてくれた。

 遊歩道は住宅街に入っていく。通り抜けると池の南端に架かる長さ157メートルの光明池大橋が出現した。美しいアーチ型の橋は歩行者専用だが、つり橋でないため揺れることはない。途中で足を止め、下を眺めると、水量はほとんどなく、両わきに緑の木々が広がり、あふれる自然に心癒やされるだろう。

 光明池を後にすると、道路沿いに和泉市特産の温州ミカン畑が見えた。「まだ酸っぱいかな」と思いながら進むと家族で稲刈りの真っ最中。秋の田園風景が広がった。

 鳥居が出迎えてくれた奈良時代創建という春日神社に着くと、拝殿で初宮参りをしている着物姿の母親に抱かれた赤ちゃんはスヤスヤと夢心地。近くには「家族みんなが幸せに暮らせますように」などと書かれた絵馬が並び、「袖振り合うも多生の縁」と、赤ちゃんの健やかな成長を願った。そういえば、11月15日は七五三だ。境内には多数の古墳が残る。

 槇尾川に架かる黒石大橋を歩き、横に梨本池を通過すると、7世紀の白鳳時代に創建されたという名刹(めいさつ)・松尾寺に到着した。境内裏に立つ府天然記念物に指定されている高さ約15メートルのヤマモモの木が、参拝者を見守る。荘厳な金堂で手を合わせ、山門の上に納められた文殊菩薩と下の仁王像2体が下界の慌ただしさを忘れさせてくれた。

 このあと、芸術の秋を堪能できる和泉市久保惣記念美術館を訪れると、特別展「香炉-東アジアの香りの文化をたどる」が11月末まで開催中だ。香炉は香りで不浄を払うとされる仏教で重宝される器。国内をはじめ、中国、朝鮮などで作られた古代から近世の香炉約150点を紹介している。色づく日本庭園も注目だ。

 さあ!ゴールの和泉市いずみの国歴史館までもうすぐだ。住宅街を抜け、桃山学院大学と隣接する歴史館の階段を上がった。ここでは、近くの和泉黄金(こがね)塚古墳(国史跡)から出土した銅鏡「卑弥呼の鏡」など約150点が展示される「和泉黄金塚の時代」が12月7日まで開かれている。いにしえの時の流れを感じながら、館外に出るとセンチメンタルな秋の夕暮れが迫っていた。(も)

                   ◇

 ≪ガイドブック≫

【和泉国古代史遊ing】和泉市、同市教委、産経新聞社などでつくる歴史ウォーク推進実行委員会が11月7日まで参加者を募集。午前8時半に同市室堂町のダイエー光明池店前広場に集合、同9時にスタートする。大阪市立大大学院の栄原永遠男教授(古代史)と仁木宏准教授(中世史)が同行して要所で、詳しい歴史などを説明する。松尾寺では両先生がミニフォーラムを開き、寺史を解説。解散は午後3時半ごろ。参加無料で小雨決行。当日の申し込みもできる。申し込みは参加者全員の住所、氏名、年齢、電話番号を記入したハガキまたはファクスで、〒594-8501 大阪府和泉市府中町2の7の5 和泉市教育委員会文化財振興課「古代史遊ing係」(ファクス0725・41・0599)へ。問い合わせは同課(TEL0725・41・1551)。

【松尾寺】松尾川支流の東松尾川沿いにある大阪府和泉市松尾寺町の山あいに建つ。鎌倉幕府、南朝、室町幕府の祈祷(きとう)所として繁栄して、寺領7000石が与えられたが、戦国時代に織田信長に攻められ、寺は棄却された。江戸時代初めに豊臣秀吉を父に持つ秀頼が再建した。所蔵する陀羅尼経2巻は国の重要文化財、再建時に移設された金堂は府文化財に指定。旧境内の松尾寺バス停横の樹齢約700年、高さ約40メートルのクスノキも府文化財になっている。

                   ◇

【てくてくガイド】

 ◆“一歩先のエコをめざして”パナソニックセンター大阪見学と紅葉の大阪城散策 集合は11月2日午前9時半、JR大阪城公園駅。コースは大阪城公園駅~パナソニックセンター大阪~大阪ビジネスパーク~青屋門~極楽橋~大阪城天守閣~豊国神社~大手門~京橋駅。参加費無料。雨天決行。問い合わせは京橋駅(TEL06・6352・0056)。

 ◆秋深まる金剛山へ 集合は11月9日午前9~10時、近鉄忍海駅。コースは忍海駅~国見城跡~転法輪寺~葛木神社~金剛登山口バス停~河内長野駅。参加費無料。小雨決行(荒天の場合は12月14日)。問い合わせは南海テレホンセンター(TEL06・6643・1005)。

 ◆紅葉の名刹・観心寺と延命寺を訪ねて 集合は11月13日午前10時、近鉄・南海河内長野駅。コースは河内長野駅~長野公園~市立郷土資料館~くずの口バス停~観心寺~延命寺~美加の台バス停~廃線跡~南海・美加の台駅。参加費一般500円。雨天決行。昼食、雨具など持参。問い合わせは大阪府歩け歩け協会(TEL06・6359・7025)。

 ◆豊中勤労者山岳会公開ハイキング「紅葉の武田尾~大峰山」 集合は11月16日午前8時半、JR武田尾駅前。コースは武田尾駅~桜の園入口~あかまつ展望所~安倉山~大峰山への合流~武田尾駅。参加費500円(交通費自己負担)。雨天中止。同12日までに申し込む。問い合わせは御旅屋(おたや)さん(TEL06・6848・2471)。

 ◆お伊勢さんへの道「伊勢本街道 第2回相可の宿から城下町田丸へ」 集合は11月22日午前9時20分~10時20分、近鉄松阪駅北口。コースは松阪駅~相可バス停~相鹿上神社~広小路~青木製菓~浄土寺~商家大好庵~常夜燈~土羽茶屋~伏拝坂~牛尾崎池~玉城橋~熊野街道分岐~宇治山田駅。参加費無料(バス代840円必要)。雨天決行。問い合わせは近鉄名古屋イベント係(TEL059・354・7007)。

【中華芸能】日本で「韓流」が「寒流」に 新たに「華流」が

10月31日11時24分配信 サーチナ

 「韓流」という言葉に続いて、ここ数年「華流」という言葉がよく聞かれるようになり、先日、閉幕した第2回「国際ドラマフェスティバル in TOKYO」でも、中国ドラマ『士兵突撃』が、東京テレビ大賞の海外優秀テレビドラマ賞に輝いた。

 これで華流の勢いが、まさしく韓流を上回ったと驚いた人も少なくない。だがこのフェスティバルの取材では、華流が確実に韓流を上回るのにはまだ時間がかかりそうだと感じた。

 日本の少女マンガ「花より男子」が原作の中国台湾ドラマ『流星花園』は、2005年に「華流」の先頭を切って日本で放映され、視聴率は平均10%、最高では12%以上を記録した。オリコンのDVDランキングでも1位に輝いたが、その後、ほかの中国ドラマや、特に大陸部のドラマはあまりパッとしていない。

 2008年8月にフジテレビで放映された『五星大飯店』も、視聴率はそう高くなかった。8月にTBSでお昼頃に放送された『新上海灘』も、視聴率は韓国の『天国の階段』を上回ったが、『天国の階段』は日本で10回も放送されており、期待されていた『流星花園』後の「華流」は、『冬のソナタ』が放映された時の一世を風靡するような勢いはなかった。

 今回のフェスティバルで、日本のテレビドラマ関係者に大陸部のドラマについて尋ねたところ、『流星花園』や『紅楼夢』、旧版の『三国演義』を除いて、知っている中国のドラマはほとんどなかった。中国大陸部の俳優も、韓国のペ・ヨンジュンや、イ・ヨンエなどとは比べものにならないぐらい知名度がない。

 中国のプロデューサーが、華流が日本で韓流を上回るのはまだ早いと話すように、華流ドラマが流行するには、まだ時間が必要だ。しかしチャンスは目の前にある。それは日本のテレビドラマはここ2年、視聴率が大幅に下がり、ゴールデンタイムに放映されるドラマの平均視聴率は10%に過ぎないからだ。

 日本放送協会の重村一会長は、昨年の第1回の「国際ドラマフェスティバル in TOKYO」で好評を得た中国ドラマ『新結婚時代』のように、家庭での話題をテーマしたドラマが充実すれば、日本進出の新たな突破口となりうるだろうと話す。

 また、ペ・ヨンジュンの時代が遠ざかるにつれて、韓国ドラマは日本で「寒流」になりつつある。同フェスティバルの営業企画部である古山嘉彦さんによると、この2年間に日本のテレビ局が購入し放送した韓国ドラマはほとんど赤字だという。それは内容がほとんど同じで、社会の現実を描いた作品が少なく、日本ドラマと同じようにマンガを原作とした作品が多いためだという。

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